よもやま、ちょっと細かい話
一昨日、ある方が、長7度のインターバルの良い例になるフレーズを探していらした。長7度(簡単にいうとドから上のシの距離感)はとても印象的な跳躍なので、色々あるだろうと思って考えるけど、確かにパッとは浮かばない。しばらく色々と口ずさんで思いついたのが、カークエラートという作曲家のフルートソロの曲。
楽譜を引っ張り出して、狙った箇所を見てみた。
音的には長7度の感じだけど(この感じ方が後で問題提起になる)、表示的には長7度ではない。譜面では、中音域のシのシャープから高いシの音(ナチュラル記号付き)なのだ。つまり、シからシなので7度ではなく8度なのだ。
そうやって改めて楽譜を眺めてすぐに気づいた。私はこのシのシャープから上のシへの音の跳躍を、ドからシ(7度)のインターバルのつもりで吹いていた。(シのシャープの運指はドだしね)
もちろんそれは正確な考え方ではないのだ。だって、シのシャープとドは、同じ音ではない。なので、こういうことを、改めてもっと細かーく見直しながら吹き直してみようと思ったところ。カークエラート好きだし。この秋はゆっくりカークエラートを極める、というのも面白そうだ、と考えた。
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そしたら昨日、別の方と音楽談義をしていた際に、なんと同じような話題が出た。
「この世にキーボードというものを創り出したのは、音楽(曲)を理解する上では罪なことだったかもしれない」
なるほど、と思った。
旋律を形作る際の音と音のつながりは、一つ一つ、一瞬一瞬、その都度、いちいち、色彩も味わいも変わる。でも、それをたとえばピアノの鍵盤を用いて表現してしまうと、均一なものとして捉えてしまいがち。
というか、例えば調律されたピアノで何か音を鳴らしてしまったら、もうその音しか出ない(当たり前だけど)。
(これは別に、ピアノが悪いとか言っているのではないので誤解しないで欲しいんだけど)
これが、例えば弦楽器だったら、例えばヴァイオリンだったら、例えばドとレをレガートで奏でるとして、あらゆる音の可能性がある。ヴァイオリンは、弦を指で押さえることによって音程が変わるから、簡単にいうと、例えばドのピッチは、上下微妙に低かったり高かったりする。
何調の曲を弾いているかにもよるし、その箇所のコードにもよるし、色々色々、様々な要素が絡まって、その時に最適なピッチをなぜか奏でる事ができる。
そういうことを感じながら音楽を作る(表現する)ためにも、ソルフェージュって必要だよね、という話をしていたのだけれど。(米国ではあまりソルフェージュを大切にしていないとのお話だった)
そして、心の中で、前日に気がついた「シのシャープをドとして吹いていた問題」が浮かんで、私は心の中でニヤニヤが止まらなかった。
ヴァイオリンなら、シのシャープとドは、やっぱり違う音なのだ。
フルートだって、シのシャープとドは、違う音だ。運指が一緒でも、その音のピッチ(音色もだけど、ここではピッチだけに着目しておく)は、自分で作るんだから。
こういうドンピシャの話題を、全然違う人から、全然違う方向から、二日連続で示される不思議。
深めていくポイントが、空気中に舞う埃の数くらい空間にちりばめられていて、だから音楽は面白い。
やっぱりイメージするって大事
最近また思うのは、イメージトレーニングって、やっぱり、理にかなっているんだということ。思考の力について取り上げられることが多くなっている昨今、いわゆる科学的なエビデンスを耳にするようになったように思う。
このパブリックのブログでここまで書くのは少し勇気がいるけれども、読んでくださる方はそれほど多くはないから書いてしまう。
個人個人が「これをやりたい」と思いつくことは、そもそも、そのことをすることができるから(ポテンシャルがあるから)、思いつくはずである、というのが、現在の自論。と、いうことは、もしフルートを吹こう、と思ったなら、吹けるはず。体の機能のどこかに、フルートという楽器で音を鳴らすことについての記憶のようなものがあるので、極端な言い方をすると、フルートという楽器を本当に生まれて初めて手にした人でも、これを吹くのだ、と自分でしっかりと思い込めば、スッと音楽を奏でることができるのだと思う。(子供の方が大人よりも難無く音が出せたりするのはこれが理由だと思う)
では実際の場ではどうなのか、というと、上から下までの運指を学び、高音はどうやって出す、低音はどうやって出す、というくらいまでの身体的な感覚を経験した人であれば、体をリラックスして、出したい音をイメージして、あの音を出すのだ、と吹けば、体の全ての必要な箇所、口や首、胸やお腹や、足や腕の筋肉や神経などが的確に反応して、その音を出すことができる。
普段は使わないようなある種の集中力かもしれないけれど、そういうまるで別人が行ったような一瞬は、特に若い人に現れやすいように思う。そういう一瞬のまるで奇跡のような瞬間を、目撃している方はもちろんだけれども、それを行なった本人が気づいて次に繋げたら、どれほどまでに上手くなるものかと、それこそ畏敬の念とともに楽しみになる。
速いパッセージや跳躍、音の響きの飛ばし具合や、ダイナミクス、メロディの歌わせ方・表現などにもそれは可能だと思う。
若い人に現れやすいと書いたけれども、若い人の方が延々と練習を続けるスタミナがあるのと、体など(思考も)が柔らかいとかの理由で反応しやすいのだろうと思っていて(自分の能力を信じやすい、というのも含まれる)、実際、ずっと年齢の進んだ愛好家の方が(プロではない、という意味)、何かの加減で不意に素晴らしいワンフレーズを吹き、周りもご本人も目がまんまるになるほど驚き喜ぶ、ということは、そんなに珍しいことではない。今のはまぐれ、という表現をしそうだけど、それはまぐれというよりは、やはりそもそも可能なことだったからできた、ということなんだと思う。
テクニックをガチガチと練習して積み上げることも、もちろん大切で必要だと私は思っている。そして、その上に、「私はこれを、こーんな風に吹いてるのだ」というイメージをバチっと嵌めることで、それこそ奇跡の一瞬のような経験ができ、それを繋げてどんどん伸びていくのだろうなと思う。
うーん、こういうのって、文章にするとなかなか難しいな。伝わっていたら嬉しいです。
読んでくださって、感謝です。
バーチャルでの意思の疎通が面白い時代
イメージトレーニングについて、説明をする機会が時折あるのだけれど。
というよりも、私は積極的に、その効果を使おうと(使ってもらおうと、体験してもらおうと)しているので、事あるごとに、イメージトレーニングを匂わせるような言葉を放っている。「イメージ」とか「イメージトレーニング」という言葉を使わないにしても。
「楽器を奏でる」は、「演奏者がイメージを外側へ具現化している」ことだと思う。だから、何をどんな表現で説明しても、受け取る方が、その本人自身のイメージを引き出してもらわないことには、やっぱりどうしようもない。
このところそういう語り掛けをするのが、録音でのことが多い。やはりこういうことは、実際に相手と物理的にその空間を共有しているときに提示するのが、効果的と言えば効果的なんだなあと実感する。
ただ、それでも、特に今のバーチャルでの情報の交換が当たり前になってきている世の中だから、バーチャルでも伝えられるような話の持って行き方を、日々試行錯誤している。
その「時」を共有している場合、Zoomや電話で繋がっている場合は、少なくともその「今」という「時」を一緒に過ごしているから、電話回線などを通してでも、お互いの意図の交換ができるというのはとても面白い。しかも、実際に発する言葉だけではなく、雰囲気や感情までも、一瞬共有できた感じがするのは、私たちの「察する力」がだんだん鍛えられてきている証拠のように思う。
加えて、伝える方も回を重ねるごとに、もっとわかりやすく、次はもっとわかりやすく、伝えたいと思うから、色々と頭の中で伝え方、表現方法や表現内容を工夫をし、その結果その理解自体が自分自身でも深くなってきているように思う。
これは、発信する側だけではなく、受け取る側もそうだ。神経を研ぎ澄ませて、相手が何を伝えようとしているかを、それこそ見えない力のようなものを使って、受け取ろうとする。
しばらく前までは、普通に目の前にあった状況。情報を交換する相手が目の前にいて、その人の放つエネルギーをそれほど努力しなくても自然に感じることができた。受ける方も相手に自然に反応を伝えるから、お互いにそのエネルギーの交換をごく自然に行う。無意識にこちらの伝えたいことを伝え、相手の伝えたいことを受け取ってきた。
それを、バーチャルで行う現在。しかもさまざまな違う状況のバーチャルがある、時間を共有していたり共有していなかったり、相互の回線が開いていたり開いていなかったり。そういう様々な条件下で、どうやって意思の疎通をしていくか。
チャレンジングではあるけれども、とても面白い世の中を生きているなあとも思う。
イメージトレーニングそのものの話題からそれちゃった。イメトレを文章で表すとどうなるか、書いてみようと思って書き始めたんだけど、まるでイントロダクションみたいになった。これはこれで自分の理解が深まって楽しい。
最後まで読んでくださったのですね、ありがとうございます。
貴方の今日が良い日でありますように。
練習するときの、回数、というか、やり方について
そういえば、自分はそれを知っていて、やっていて効果を感じているけれど、普段なかなかタイミングを外しちゃって、伝えきれてないなと思うことがあるので、そのことを。思いついた時にこうして書いておけるのって、いいですね。
練習するときの、回数、とか、やり方について。これは、フルートを吹くことだけには、限らないんじゃないかなと思う。楽器が違ってもそうじゃないかなと思うし、音楽に限らないかも。
自分に、何らかのやり方を学ばせているとき。フルートであれば、あるパッセージを吹きこなすこととか、例えば書道であれば、ある筆の払い具合をマスターしようとしているとき。(書道は自分ではやらないので想像ですが。カリグラフィーの練習をしてるとそういう感覚があるので、そうかな、と)
演奏を聴いていてよく思うこと。何かができてないとき、「惜しい、練習が足りてない」と思うことがあります。いわゆる「いかにも練習不足〜」というのは惜しいというより単に練習不足なんですが(それはそれで惜しいんですが)、いかにも練習をたくさんされてた形跡がわかるのにあと一歩が…という感じがする場合。ここ、というところに達してない、あとちょっと、という感じがする場合。
それで、考えていたんですが、やっぱり、練習が足りてない。足りてない、というと、単に、じゃあもっと何回も反復練習みたいにすればいいんですか?って訊かれそうなんですが、そうではなくて。
おそらく、その、その部分が思い通りに吹けるようになる「臨界点」みたいなのに達する直前で、疲れちゃって、もうその日は諦めて、練習を止めているんだと思う。同じパッセージとか、出したい音とかの追求とか、そういうのを、やってやってやってやって、「あああ疲れた」ってなった時に、もういいやって思って、止めてるんだと思う。
そこをクリアするのに、2通りのやり方があると思います。
その1:
そうやって、集中してやっているとき、体の感覚とかが乗ってきた感じがするときは、「ああ疲れた」って思っても少しだけ、もう少しだけ続けてやってみるといいと思います。もういいかな(もう今日は練習終わり!)、と思ってからも、後ほんのしばらくやっておく。その、「もういいかな」って思うのって、臨界点の直前だと思うのですよ。そして、その臨界点を超えないと、その思っている吹き方には到達できないわけだから。その臨界点の直前に来てるのに、そこで練習を止めるのは本当にもったいない。後ちょっとなんだから。
その2:
こっちの方が、体力とか精神力の極端な消耗が避けられると思います。ただ、時間に制限があるとできにくいので、休日など、ゆっくり時間が取れるときに、計画的にやるといいかも。その1で書いた臨界点に達する直前の、「ああ疲れた」って思う瞬間に、あともう一回だけくらいやったら、笛を置く。片付けないですよ、置くだけ。そして、ちょっとその辺を歩いたり(隣の部屋に行くとか)、ちょっとお水で唇を湿らせたり、洗面所へ行って自分の顔を鏡で見てくる、くらいをするといい。そして、戻ってきて笛を手に取って、すぐさっき練習してたことと同じことを、同じ集中力の感じで、やる。
どちらの場合も、臨界点(みたいなもの)を超えた場合、ちょっとナチュラルハイになったような感じで、何かに取り憑かれたかなと思うような感じで、いきなり思ったように吹けるようになってることに気づくと思います。その、ゾーンに入ったような状態で引き続き色々と練習すると、ものすごくたくさん、短時間に効率的に練習できます。
ただ、その練習を終えた後、どっと疲れていることにも気づくと思います。やっぱりそのくらい、普段は使っていない色々なエネルギーを使ってるってことでしょうね。
その2のやり方だと、そのフルートを置いた一瞬少しだけ脳とか体を休ませているので、次に吹き始めたときのゾーンが少しだけ長続きすると思う。でも、あんまりうまくいくからと調子に乗って吹いていると、本当に頭も体も疲れるので、椅子を用意しておいていつでも座れるようにしていた方がいいかもしれないです。
どちらも、集中して練習しているときのやり方です。例えば曲を吹いてて「ここぞ」というところを練習してるとき。難しく思えるパッセージとか、フレーズの持っていき方とか、音色とか。(ここができたらもういうことないのに、みたいなスペシャルな箇所ね)
ほんのちょっとの差なんですが、この「後もう2回ほど」みたいな練習を日々続けていると、どんどんと色々な意味で上手くなっていくはずですから、ぜひやってみてください。
自己満足でいい
大好きな曲がたくさんある中で、定期的に吹きたくなるライネッケの協奏曲。私の中の魂みたいなものが、体の中から喉を通って、フルートの歌口を通過してぱあああんって外へ飛び出るような感じがするのです。どこを取ってもそういう感じ。きっとだから定期的に吹きたくなるのだと思います、吹いててとっても気持ちがいい。体の芯に空気が通る感じ。気管が開いて息がしやすくなるような感じ。吹いていながらずっと深呼吸をしているような感じ。
私はこの曲を、舞台で吹いたことがありません。オーケストラをバックに吹くような機会はありませんでした。そもそも、ライネッケのフルート協奏曲ってやっぱりマイナーだし。あんなに美しいのにね。それに、実際にオーケストラをバックにして全曲を通して吹くには、相当な体力が必要だろうと思う。
これからも舞台で吹くことはないと思います。ではなぜ、こうして楽譜を取り出しては、吹くのだろうか。私、なんのために吹いてるんだろう。指が回りにくいところは練習したり、ダイナミクスの加減だの、音色だの、いろいろいろいろ考えながら吹き進んでいく。
なんのために。
私はね、これは、自己満足だと思います。吹けば自分が気持ちいい。
(だから、フルートを吹くのってヨガをするのに似ていると思います)
吹いている時の高揚感。オーケストラの動きを想像しながらタイミングが来たら吹き始める時の、どこから息を吸い始めるかとか、体の起こし具合はどうかとか、どこへ向かって吹いているのか、とか。
想像の世界も加わってくるのですが、それがとっても気持ちがいいのです。
だから、フルートを吹いていらっしゃる皆さん、どんどん好きな曲を吹いていきましょうね。自己満足の世界なんですから、全曲吹けなくたっていいんですよ。吹きたいところだけ吹けばいいと私は思います。
このライネッケの協奏曲も、最初の2小節ちょっとのソロのところだけを吹いたのでもいいと思いますよ。私はよくこの箇所を、イメージトレーニングのサンプルに提案しています。
ぜひ吹いてみてください。前奏のオケの響きを想像して、たっぷり息を取って、体の重心を整えて、最初のFisを自分のタイミングで吹く。もうね、Fisだけを吹くのでも相当なイメトレになります。
気持ちいいですよ〜
今はしっかり休息をとる時かも
以前フルートを吹いてて、でも止めちゃって、でも、やっぱりフルートを吹きたいと思ってるんだけれど、でもどうしても再開できない、という方へ。
吹きたいなあと思ったのなら、吹く時なのだと思う。
もし、吹く時じゃないのなら、吹きたいと思わないです。
では、なぜ、フルートのケースの蓋が開かないのか。
きっとね、今、パワーがとっても落ちてます。エネルギーを消耗している。よく、コップを満たすという言い方をしますけど、コップの中のパワーやエネルギーが十分じゃなくて、日常の最低限(と思っている)ことをするのに精一杯で、フルートに向けられない。
コップの中のパワーって、日常のいろんなことに使いますよね。起床して、身の回りを整え、食事を摂り、家事をする人は家事を、仕事をする人は仕事をする。もしそこまででパワーを使い切ってたら、それ以上のことはできないです。もう車を走らせるためのガソリンがない。
これは、フルートだけじゃなくて、なんでもそうなんだろうと思う。
何か、やりたいことがあって、そのことを夢想するくらいやりたいのに、できない時は、パワーが落ちてます。
だから、そういう時は、時間をやりくりしてフルートを吹く時間を捻出する、のではなく、
しっかりと休息をとる時ですよ〜
元気を取り戻しましょうね。
その時の気分で吹く
気分に合う曲を持っているといい。
楽になりたい時。体の力を抜きたい時。
ぴっと元気になりたい時。
少し落ち着きたい時。
少し悲しみがある時。何か思い出した時。
レパートリーが増えていくと、その時々の気分に呼応する曲をパッと連想することも増えていくと思う。そういう曲は、楽譜もすぐ出せるところに置いておきたい。
時期によって変わるから、定期的に入れ替えるのも楽しい。
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何かプレゼンテーションをするような時、「さあ、やるぞ」と思うような時、少し誇らしいような時、私はよく、プロコフィエフのソナタ(原曲はヴァイオリンソナタ)の出始めを思い浮かべる。中音域のAで始まるから、吹きやすいし、呼吸もしやすい。ゆったり4拍子なのもいい。地にしっかりと足をつけて吹く。どしんと自己肯定感が増す。
爽快な気分を呼びたい時は、ムーケのパンの笛。ヘ長調ってどうしてこんなに元気になるんだろう。楽器の穴という穴から、元気が外へ迸るような。喉元がすっきりと伸びるような感じ。
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午後の日が少し陰り始めたごろに、ぽっつり時間が空いた時、譜面台を低くして椅子に腰掛け、ジョリヴェの5つの呪文の第4曲を吹く。どこを吹いても身体が緩むのがわかる。少し身体に力が入っていたからこそ分かる、この緩んでいく感じ。
ただ、つい調子に乗って、他のインテンツな楽章も吹いてみたくなるから注意が必要。